平和の道

19-立石平和の碑

昭和20年(1945)3月27日、大刀洗飛行場とその周辺一帯が、アメリカ軍による激しい爆撃(ばくげき)を受けました。この爆撃によって三軒屋周辺では、立石国民学校(現在の立石小学校)のこどもたち3人をはじめ、7人がなくなりました。この碑は、戦争の悲惨(ひさん)さと平和を守る大切さを次の世代へ伝えるために造られました。

20-立石国民学校奉安殿(たていしこくみんがっこうほうあんでん)

戦争中の子供たちは、毎日登校のときに「奉安殿」と言う建物の前で最敬礼(さいけいれい)をしてから校舎に入っていました。奉安殿の中には、当時「ご真影(ごしんえい)」と呼ばれていた昭和天皇の写真と、そのころの教育方針を記した「教育勅語(きょういくちょくご)」が入っていました。これらは終戦後ほどなく撤去(てっきょ)されましたが、立石国民学校のものは現在の位置に移され、立石村役場の金庫として使用されていました。

21-花立山防空壕

戦争中は自分たちの身や物資を空襲から守るため、「防空壕」と呼ばれる避難場所(ひなんばしょ)を造っていました。花立山には人々が避難するためのものと、陸軍関係の施設で使用する軍需(ぐんじゅ)物資を入れたり、兵隊が隠れたりするものがありました。写真の防空壕は軍需物資を入れるためのもので、長さ20mほどのトンネル状に造られていました。

22-傷ついた観音像と釈迦像

昭和20年(1945)3月31日、大刀洗飛行場から花立山にかけて爆撃がありました。この観音堂の近くにも爆弾が落ち、右側の観音像の首は爆風で飛ばされて折れ、左側の釈迦像の光背(こうはい)部分も爆撃で欠けてしまいました。お堂は昭和25年(1950)に再建されましたが、永年の風雨にさらされて傷んできたので、平成20 年(2008)7月、近くに移築・再建し、仏像を安置しました。ふたつの仏像に残った傷は、山隈を襲った爆撃の激しさを今に伝えています。

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