史跡散策マップ

参勤交代の道

江戸時代の松崎は、薩摩街道(さつまかいどう)沿いの宿場町として大変栄えました。宿場内には現在でも、旅籠(はたご)油屋や南北の構口(かまえぐち)など当時の面影を残す文化財が数多く残されています。また、枡形(ますがた)や桜馬場(さくらのばば)は当時の宿場町の風情を今に伝えています。

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<距離・時間> 約4.4Km・2時間40分

 

14−霊鷲寺(りょうじゅうじ)

霊鷲寺

  • パーキング

寛文9年(1669)、久留米藩支藩の松崎藩主となった有馬豊範(ありまとよのり)は、延宝8 年(1680)に三潴郡西牟田にあった霊鷲寺をこの地に移しました。臨済宗の寺院で、本尊として薬師如来像(やくしにょらいぞう)がまつられています。勅願寺(ちょくがんじ)という格式(かくしき)の高い寺院であるため、参勤交代(さんきんこうたい)のとき薩摩街道(さつまかいどう)を通る諸大名も、この寺院の前では籠(かご)や馬から下り、拝礼(はいれい)してから通過したといわれています。

15−北溝口[小郡市指定文化財(史跡)]・松崎宿歴史資料館

北溝口

  • 案内

松崎宿は久留米領内で一番北にあり、国境に近い重要な宿場でした。特に北構口は、筑前国への出入口とも言えることから、重視されていたようです。ここから北へ進むと、筑前国山家宿(やまえしゅく)に至ります。道の両側に縦横二間四方(約4m)、高さ一間(約2m)の石垣が築かれ、隣接した場所には番所小屋が置かれていました。北構口を入ってすぐのところには、枡形と呼ばれる構造が残っています。これは、道をわざと直角に曲げ、敵が侵入してきたときに容易に宿場内を通り抜けられないようにしたものです。

※松崎宿歴史資料館の見学には事前申込が必要です。(0942-75-7555 まで)

16−旧松崎旅籠油屋(はたごあぶらや)[[小郡市指定文化財(建造物)]

旧松崎旅籠油屋

  • 案内
  • パーキング
  • トイレ

旅籠油屋は、江戸時代後期(18世紀後半)に建てられた大型の旅籠建築で、棟を分けた「主屋(おもや)」と「座敷(ざしき)」から成っています。「主屋」には一般の旅人を、「座敷」には身分の高い賓客(ひんきゃく)を泊めており、大名を泊める本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)に次ぐ施設であったと考えられます。油屋には西郷隆盛(さいごうたかもり)が宿泊したという伝承が残されており、また乃木希典(のぎまれすけ)が昼食をとったことが、その日記から分かります。

17−南溝口[[小郡市指定文化財(史跡)]

南溝口

  • 案内

松崎宿の南側の出入口にあたります。ここから南へ進むと、府中宿(ふちゅうしゅく)に至ります。宿場の出入口に設置された石垣を持つ構造物は、薩摩街道だけでなく、東海道や中山道を描いた浮世絵などにも見られます。東海道のものは「構口」ではなく、「見付(みつけ)」と呼ばれていたようです。近世の宿場町には一般的な施設であったと考えられますが、その多くが近代〜現代の道路拡張工事などによって失われています。松崎宿は南北双方の出入口の石垣を残す、全国でも貴重な場所であると言えます。

18−松崎城跡

松崎城跡

  • 案内

江戸時代には久留米藩領だった小郡市ですが、寛文9〜12年(1669〜72)の間は、2代藩主有馬忠頼の養子である豊範に御原郡19ヵ村1万石が分け与えられました。参勤交代道である薩摩街道や松崎宿は、この分知によって成立したと言えます。松崎城は豊範が居住した場所を指し、現在の県立三井高校の位置にあったことが判明しています。しかし、建物は石垣や天守閣を備えた城郭ではなく、堀や土塁で周囲をかこんだ、堅固な館であったと考えられています。平成9年(1997)に発掘調査が行なわれ、溝や瓦などが見つかっていますが、実際にどのような建物があったのかはまだわかっていません。

 

古代体験館おごおり[小郡市埋蔵文化財調査センター] 〒838-0106 福岡県小郡市三沢 5147-3 電話0942-75-7555
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